モア・グリーン・ゴビ税理士の森基金
  平成17年度植樹訪中団の一人になって
小菅 清一郎

 植樹訪中団に参加する予定は前々から考えていましたが、一昨年中国方面のSARSの関係で、渡航が制限され、やむを得ず計画さえが中止されました。非常に残念と思っていました折、今回の植樹訪中団の事務局長になられた石井啓子さんから声をかけて頂き、第8次となる今回の訪中に参加することに成りました。その日程は9月16日から21日の6日間です。
 先輩たちがすでに7回も植樹をされた、ポプラと松の木がどのように砂漠に育っているか等々で気持ちは弾む一方でした。

 《初日16日》
 北京の空PM2時15分に飛行機から見たその空は日本の20年前の光化学スモッグ状態で晴れているのに太陽がまるで見えませんでした。その北京にて飛行機を乗り換え、包頭市へ向かうが、その乗り換えまでの間が7時間もあった為バスにて北京市の天壇公園を見学、都の歴史の古さ(西安は2000年、北京は900年、上海は100年)に驚く!!(賃貸マンションは約50u2Kが標準であり、uあたり8000元。1元を15円で換算すると12万円位である。買いは4000万円もする。)
  お金持ちになった人は、北京ではマンション、次に車、上海では先に車、次にマンションだそうだ(道路の都合である)。ガソリンは1リットルあたり5元=70〜80円である。そんな話をバスガイドの張莉さんから聞きながら、夕食を燕翔飯店で摂ったあと包頭空港へ最終便で着き達拉特旗の政府賓館に泊まった。

《二日目 17日》
  午前中10〜11時、砂漠ウオッチングをし(2つこぶ)ラクダの背に乗せてもらい一行はキャラバン隊と洒落込む。
  気温は15度位、空は晴天、太陽ギラギラ、湿度は10%位。じつに気分は最高!
  お昼は、内モンゴル自治区の地元のトルーマさん宅で、大ご馳走だ!
  子羊とジャガイモの煮物、キュウリの浅漬、乾燥したクッキー?栗、きび、饅頭(カステラ系)、牛乳(ミルク)、お茶(チャオ)、スイカのうまい事!トマトいため、等々すべて手造り料理。トルーマさんの庭には、子羊とヤギ、ニワトリが一応囲いの内にところ狭しと歩きまわっていた。

[作業]
  午後1時半達拉特旗の中学生達20〜30名がトルーマさん宅へバスで来てくれた。皆スポーツのジャージ姿赤と白のお揃いだ。赤い帽子もかぶり、行列を作り、長いスコップを持ってかつぎ男子女子入り混じって10分程歩き、注意事項を確認し、いざスタート!
 1本のポプラの木を植える為には約80cm〜1m程に学生と我々が相互にスコップで穴を掘る。
  深さを確認しながらお互い顔に汗しながら規定の深さになるとポプラを植え(穴に落とし)根の安定するまで砂地によけた砂を入れ、水(ホース)でたっぷり保護し、少し土が乾いた処を見て、全部埋める。そして、小動物(野うさぎ)がポプラの皮を食べない様に金網を巻いて守る。植える順はこのようにするが何本も植えのにで順は逆になったり色々であるが、結果的には6〜7ヶ所の穴は私も掘れた。ボランティアの子供たちは手に豆をつくりながらも、とにかく笑顔で頑張ってくれました。最後に私は植えたポプラに2007.9.17と名前KOSUGEをサインし写真を撮ってもらいました。ちなみに私のいでたちは、地下足袋(21こはぜ)姿でしたので達拉特旗の学生ボランティアたちも珍しそうにみていました。(私も実は初めてです)

 《三日目》
 7時に朝食をいただき、(政府賓館)バイキング方式であるが、品揃えも、味も口に合ってきて美味しく食べました。バスは一路、東勝へ、途中ガイドさん曰く3〜4月の黄砂について話してくれた。

[黄砂について]
 内モンゴルはこの時期30m先は見えないし、空は暗く電気を点けないと車は見えないほど砂が飛ぶそうだ。いまの砂漠からは考え付かないが800年前、かのチンギスハーンがこのオルドス地域を通過した時は青々とした草原であった。彼は「自分が死ぬときはこの地に埋めてもらいたい!」といったくらい緑の草原であった。それを我々が植樹に来ている事は地元の人たちは感謝しているそうだ!

 《小渕基金のはなし》
 日本の元総理、小渕氏が、総理大臣の時にこの地域の植樹のために年間2千万円を寄付するという話。それからずーっと今日の今も小渕基金が続いているとの事である。
 2千万円の内1千万円を年の初めに送り、青年団活動家を主に植樹を行い、政府担当者がその年の計画通りに行われている事を確認後その植樹の写真等を見て良好であれば残りの1千万円が振り込まれると言う事だ!すばらしい基金だと思った。

 [ハプニング]
  昼食後の東勝市から北西20km先の岩山が松の木の植樹地だが、しばらく走り、農道らしき近道をバスは抜ける途中、輪立ちが深く掘れている畑道で、しかも車体が低い為、車の底がついてしまい走ることができなくなってしまった。そこで全員一致で20名(約1トン)が降り、軽くなったバスはめでたく通過、砂柳木の道を通り目指した山まで到着した。また、帰りもおなじ事が起きてしまい、今度は皆でバスを押したのである。
 その山はだは、マンモスの骨が出たり、北京原人の骨が発掘された地層の山岳地帯で、何万年もの地層が見事に隆起したその姿は我々を一瞬くぎづけにした。

《作業》
 ここでは青年団活動家の依頼で、山村の人が遠方に見えた旗(赤、黄、オレンジ)の近くにすでに、つるはし等で穴を開けて待っていてくれた。山の上には緑の横断旗で歓迎植樹税理士会等々、また今回我々訪中団の石碑まですでに作成してくれていたのには、感激をし、力も何倍も出ると言うものです。
 少し間をおいて、当日の助っ人学生たちが来てくれて、作業は、岩場の穴掘りだが、かなりの速さで、予定したすべてを植林できた。すでに先輩たちが行ってきたこの大変な作業が我々を負けず劣らず出来たこと。成し遂げたことに岩山を見おろしながら達成感でいっぱいであったのは私だけではなかったであろう。

(残念なこと)
 もっとしっかりと、英語と中国語を会話の出来る程度勉強するべきだった。反省!

《20日21日》
 この2日間は20に万里の長城にて私たち何人かは、男坂のほうへ健脚を確認して、大変さを確認した。オリンピックを前に、物売りには警察官が形式的に追い払う姿が見られたが、まだ生活は日本のあの苦しかった時代を思い出させる風景をかいまみた。21日は故宮博物院(紫禁城)を見学して北京の古きよき時代等々を考えさせられました。

 [終わりに]
  丁度、中秋節(満月)だったことで、羊の丸姿の料理を東勝の夕食で味わえた事。念願の露天掘り石炭坑を遠方から見ることが出来た事。地球的規模の中国に植林をすることが出来いつか黄砂、日本海の魚がもっと美味しく食べられる事(食べている事)。近い将来、中国の公害も消え青い空が北京にも戻ること。あの青年たちをこの日本に招待出来る事。もっと勉強する事。こんな反省をしながら、関係各位に感謝し、また懲りずに参加してみたいと思います。健康に合掌。